ビタミン② ビタミンの歴史 脚気

私達は、食事・食べ物が長期にわたって摂れなかったり偏っていたりすると、体験的にまた情報の取得で、きっと何らかの栄養素が足りていない、栄養不足になっていないだろうかという感覚は持つと思います。

この何らかの栄養不足があるのでは?という意識が浸透してきたのは、意外と近年20世紀以降になります。

前の投稿でビタミンの名付け親はカシミール・フンクと書きましたが

ポーランドの生化学者、カシミール・フンクは、それまで原因不明とされていた『脚気』の原因は、ある栄養素が欠乏して起こるという事、そしてその栄養素がビタミンB1であると突き詰めました。それが1912年です。

日本に目を向けてみると、日本でもずーっと原因不明の病気で国民は苦しんでいました。

1600年代江戸時代、玄米に代わり精米した白米が徐々に広まり、「江戸は仕事もたくさんあり、何よりも白米が食べれる」と、地方から人々が江戸に集まりました。

しかし江戸では奇妙な問題が持ち上がっていました。地方から江戸に来た庶民や、参勤交代などで地方から江戸に来た侍たちが体調が悪くなり寝込むほどになりました。

これらの人々が地方・故郷へ帰る・返されると、ケロリと病が治ってしまうという事から江戸わずらいと呼ばれていました。

江戸時代当時の江戸わずらいと言われていた脚気は、罹ると神経の障害で手足が麻痺する、しびれる、そして重くなると心臓に障害を起こし死亡する病として恐れられていました。

1800年代後半の明治以降は、脚気はさらに拡大して、年間1万人から3万人が脚気で亡くなっていたとあります。

特に軍隊内では、脚気により兵士が次々と亡くなり、国家を揺るがす大問題になっていました。

陸軍、海軍で、その軍隊を率いる軍隊の軍医の采配の違いが明暗を分けたのは有名な話です。

海軍の軍医の「高木兼寛」は、イギリスに留学し医学を学んだ経験から、食べ物の原因が食べ物である事をいち早く見抜き、兵隊の食べる食事に麦飯を取り入れ、脚気を著しく減少させました。洋食(副食など)を取り入れる事が、脚気の解決の鍵である事に気が付いたと、後に語っているとか。

一方、同じころの日本の陸軍では、ドイツで医学を学び帰国した森林太郎(文豪の森鴎外)に託されていました。当時の日本では、伝染病の病原菌を発見したドイツのコッホらに影響され、ドイツ医学が主流になっていました。

ドイツ医学を学んで帰国した医師らは、脚気は「脚気菌」による細菌感染症という説にこだわって、海軍での高木兼寛の著しい成果をも、ことごとく無視していました。

陸軍の中でも、麦飯を採用するように上層部に上申する人々がいましたが、上層部はその意見を退け、白米食に逆らったとして左遷させられる人々もいたとか。

日清戦争で、陸軍では戦闘が直接原因でなく脚気での死亡者が4000人にもなったといいます。

一方海軍では、脚気になった人は皆無だったと。

白米主義のまま、日露戦争に突入した陸軍はさらに悲惨な結果を招き、陸軍兵士の21万人余りが脚気に罹り、2万7千人余りの死亡者を出しました。

それに対して、海軍では脚気患者は3人でした。

この様な事態になっても、我が国の軍隊は、陸軍上層部へは何のおとがめもなし。

森林太郎(別名森鴎外)は、後に日本国軍医総監まで上り詰めました。

一方、高木兼寛は、当時のドイツ医学の主流の研究主義に反して、患者に接し治療する臨床医学の大切さを広めるために、1881年、医学研究所を立ち上げました。それが後の東京慈恵医科大学になります。

高木兼寛が、脚気から海軍を救ったと言う業績は、森林太郎が死去するまでは封印されていたといいます。

高木兼寛の死去の2年後に森林太郎が死去したとの事。

しかし、脚気の原因ビタミンB1の発見までの道のりはまだまだ…。


参考文献 杉晴夫著書 「栄養学を拓いた巨人たち」


栄養カウンセリングユウケイ

【沖縄県沖縄市】 看護師の知識・経験と分子整合栄養学を融合した栄養アプローチを提案します。