ビタミンというと、植物性食品を連想することが多いと思いますが、一番ビタミンB1を含む食品はう・な・ぎ です。
ビタミンはヒトの体内で合成出来ないため、また合成出来たとしても量が不十分のため、食事から摂取しなければ欠乏症をおこします。
ビタミンB群(8種類の仲間がいる)は、食事から取り入れたタンパク質、脂質、糖質からエネルギーを生成する時に必ず、必要になります。
また、食事から取り入れたタンパク質を利用して、体を作るタンパク質を合成する時にも必要になります。
ビタミンB群は、ビタミンB1、ビタミンB2、ビタミンB6、ナイアシン、パントテン酸、ビオチン、ビタミンB12、葉酸と8種類のビタミンの総称です。
ではでは…第一コース ビタミンB1く~ん!
ビタミン欠乏と言われて、過去の歴史においても、現代でも!最初に思い浮かぶのが、ビタミンB1(チアミンthiamine)です。
医師や看護師の医療従事者の国家試験で、ビタミンB1欠乏→ウェルニッケwernicke脳症は必須問題だったような…。
ビタミンB1欠乏症は遥かさかのぼる事、江戸時代からです
江戸初期、手足の神経障害、むくみ、心不全の病いが、将軍や富商売の人など裕福な階層に 流行りました。玄米から白米に食生活が変化していったことで、江戸時代末期には一般庶民にも広がっていきました。 脚気は原因不明の奇病とされ、参勤交代などで江戸にいる時に武士がかかったことから、 「江戸わずらい」と呼ばれていました。
明治時代になってもさらに脚気の流行は拡大していきました。
日清戦争・日露戦争の頃、日本海軍を率いる海軍医の高木兼寛は、イギリス留学での経験から脚気は食べ物が原因で有ると見抜き、脚気にならないためには洋食が鍵になると考え、海軍の食事麦飯を取り入れました。
一方、陸軍軍医であった森林太郎(文豪の森鴎外)は、当時の医学で世界をリードしていた ドイツに留学経験がある事から、脚気は「脚気菌」による感染症であると唱えた。 高木兼寛が唱える麦飯に対抗するように、ますます感染症に固執していき、当時の陸軍の食事は白米6合、副食は乏しく、ますます脚気リスクを高める事となっていきました。
結果は、日清戦争で4000人以上、日露戦争で2万7000人以上の陸軍兵が脚気で死亡し
海軍兵士の脚気による死亡は、日清戦争ゼロ人、日露戦争では3人であったと。
明治後期1911年、科学者・鈴木梅太郎が、脚気に効く成分を米糠から取り出すことに世界で初めて成功し、オリザニンと名付けたが、日本語での論文発表であったために、世界的には広がらず、1912年、フンクによって「ビタミン」が発見されて、脚気はようやくビタミンB欠乏症であると認知されるようになった。
しかし大正時代(1912年~)になっても、白米しか食べない人々が脚気を発症し、結核と並んで二大国民病と言われていたほどでした。
1975年頃からジャンクフードの普及によって再流行していった。←今現在もここ。
特に、清涼飲料水や、菓子パン、ファーストフードなど、吸収の良い糖の過剰摂取などが、欠乏症に拍車をかけていると考える。
また、アルコール依存症の患者さんにも脚気が多く発症した。
脚気を英語でBerberi(ベリベリ)と言うそうだ。ベリベリはジャワ語で(私は何もできない)という意味だとか。
低栄養で意欲が低下して、寝たきり状態に近い人の中にも、脚気が原因になっている場合もあるのではないか。
参考文献 清水健一郎著 栄養療法はじめての一歩 から
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